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副住職のはなし

悲しみが憎しみにかわる時

副住職のはなし

「真宗」という寺院に配られる機関紙を読んでいましたら、ハンセン病と原爆について書かれている記事がありまして、その中で被爆者が慰霊祭にて米軍から送られた花を踏みつけておられたという一文がありました。

踏みつけた方は普段は平和運動を熱心にされている方らしいのです。被ばくの悲しみから平和運動をされておられるのでしょう。しかし現実には自分は被害者であり加害者の米軍を許せないというお気持ちが、花を踏みつけるという行為をさせたのでありましょう。平和運動は世界から争いを無くしてゆこうという趣旨だと思うのですが、その出発点である自分自身のうちで争う心は無くせないと示しているのではないでしょうか。

 

そこには争いを無くす方向を目指すけれども足元から崩れてゆく人間の姿があるように思います。

ここに人の行為の限界があります。カール・バルトでしたか「人間のいかなる善良な行為にも必ず破滅の芽が潜んでいる」という言葉がずっと私の中にあるのです。

 

元長崎市長の本島等氏は「戦争の悲惨さをいくら訴えても平和にはならない。絶対的なゆるしこそが平和への道だ」とおっしゃいます。ここで語られる平和はどのような平和でしょうか。わたしは一般的に表現される争いが無くなって善しとする平和ではない様に感じます。

 

そして絶対的なゆるしとはなんでしょうか。絶対的なゆるしが私たちにあるでしょうか。おそらくキリスト教の言葉と思いますが、私達が絶対的なゆるしを行うのではなくて、先程のバルトの言葉を借りるならば、

破滅の芽が潜んでいる私たちの身がゆるされているのではないでしょうか。キリスト教の言葉では神のゆるし・愛でしょうか。仏教ならば本願念仏です。仏様が・仏様の方から私が案じられている。

そのゆるし・愛を通じて私たちの破滅の芽と表現される深い傷が癒され、争いを起こし問題を抱える身ながらその身をじっと見つめて生きる生き方が始めるのではないかと感じた次第です。