副住職のはなし
人間にうまるる事、大きなるよろこびなり。
副住職のはなし題名の言葉は横川法語といいまして、源信が書いたものです。なぜこの言葉を持ってきたのかというと寺院向けに配布されている真宗という機関紙があるのですが、この中に本山の法要でお話される教学研究所所長の楠信生さんの講題が「人間にうまるる事」とありまして横川法語を思い出しました。
楠さんがこの言葉を横川法語から持ってきたのか定かではありませんが、持ってきたと仮定してなぜ「人間にうまるる事」で切ってあるのか、「大きなるよろこびなり」と続かないのか。それはヒューマニズムと仏教の差異を明らかにするためではないかなと感じます。
大なるよろこびと続けて書いてしまうと、つい自分の考えに近い事を当てはめてしまうからではないでしょうか。例えば仕事も家庭も上手く行っている・今の所大きな問題もなく人生過ごしている事をもって人間にうまれて良かったなと決めてしまう。自分の思い通りに生活が成り立っているから、人間としての喜びなのだと。
しかし源信が横川法語で言っているよろこびは意味が違います。前回も書きましたが自分の身が照らされるのが仏教なのです。照らされた自分の身は苦悩や病気を抱えて最後は死んでゆく身です。普段の私たちは死を見ないようにして生きています。
そして自分の考えを持ち自分の正義感を持ち、それに反する人を排除する生き方をしています。自分の考え・自己の正義は本当にやっかいです。
お互いにひとりひとりが、自分に義があると思っていますから衝突するのは当たり前です。損得・善悪で裁きあうのが私達の生き方ではないでしょうか。
頭の良い人は決して態度に出しませんが私などは直ぐに顔に出ます(笑) 先日住職から顔を見ると心のうちが良くわかると言われました。私も「正直者なのでそうでしょうね」と返しておきました。
損得・善悪で生きお互いに争うのが本当のところなんでしょう。しかし仏様はその争う私と一緒に歩んでくださるのです。私に争うという身の事実を知らせて生きる意味を訪ねようと促すのが仏様のこころです。
身の事実を知ってはじめて苦悩する自分の人生を丸ごと生きてゆこうという願いを生きるのだと思います。その願いを生きる事によって死も自分の外にあるのではなくて、自分のうちにあると頂けるのだと思います。
身の事実を忘れるとき自分が人生に求めるのは欲望を満たすことに終始します。
手を合わせる祈るという行為にはこのような願いがあります。また先んじて道を歩んでいる人々に出会える縁を頂くことにもなります。実にゆたかな道です。先人を訪ねてはじめて仏様の願いに触れるのでしょう。源信が言うのは、ここを含んだよろこびです。
源信にも明らかになっていませんが、きっと導いてくれた先生や友達がいたのではないかと「人間にうまるる事、大きなるよろこびなり」という言葉から感じた次第です。