副住職のはなし
歌を聞いてびっくり。
副住職のはなし毎日寒いですね、雪は一段落したでしょうか。お寺も水道が凍って水が出ない状況であります。
檀家さんのお参りに行くのですが116号が地吹雪などで渋滞していて最近クルマの中で過ごす時間が多いです。
音楽が好きなのでずっとクルマを運転しているときは聴いています。最近The peggiesという日本の女の子3人組のバンドを聞く機会があったのですが、歌詞に感じる所があったので紹介させてもらいたいと思います。
『ひとつになれない僕らは愛を求めるよ 満たされなくて歯がゆくても愛してみたいんだ 愛してしまうんだ だから行くんだ 』とあります。
ひとつになれないというのは、人間であれば誰でも抱えている問題と思います。他人とひとつになれないのは勿論の事、自分自身とも決してひとつになれない。人間が抱えている一番大きな問題なのですが、世間では取り上げられません。
いつでも理想を描いて現実にいま此処に生きている自分を尊べない。尊ぶというのは優れている私であろうと、失敗して蹲っている私であろうと受け取るという行いです。
仏教ではこれを行(ぎょう)といいます。この行について自分の力だけで修めるのを修業といいます。
ですから、決して修業して良い人間になろうという事ではありません。世間の役に立つ人間になる・乱れない心を持つ人間になる・そういう理想的な人間を養成するのは仏教でも宗教でもありません。
似ているように感じられるかもしれませんが違います。
浄土真宗は他力の教えです。先ほど書きました自力の修行と他力の修行は別々にあるように宗派でも言われていますがこれも間違いでありまして、人間は最初から自分が思い描く理想を捨てることはできません。
私も最初は自分の力で仏教を修めようとしていました。そうすると仏教の教えと自分が別になってしまい自分の事は抜きにして仏教を学ぼうとします。
自分の事を深く知るのが仏教なのですが、そうすると自分の事を抜きにして他人を教化しようとするんです。とても教条的・権威的になって他者を宗教的に裁こうとします。そのようになると仏教が尚更自己と他者を、また自己と自己を引き裂きます。
歴史を紐解くとずっと仏教教団はこのような状況にあると思います。しかしその様な教団でもそれは教団が悪いのだと自分とは関係ないと言わずに、自分を含む人間全体の問題だと、その間違いを縁として仏教(いのち)に帰って行かれる方がおられます。
宗教者・教団の問題として書きましたがこれは広く誰でも抱えている問題なんでしょう。
ですから間違いをするのが問題ではなくて、その問題を通じて私自身の傲慢さ(良し悪しで裁く)に気が付くのが仏教の教えです。
この一連の物語を通じて自分の深い闇に気が付くと同時に闇が果てしなく深い私に仏様は愛情をかけて下さる。普通ならそんなに闇が深ければお前はダメだと言われてしまいます。
しかし阿弥陀様・仏様はそんな人を決して捨てない。一緒に人生を最後まで歩んでくださる。そんないのちを生きていることを知りなさいと、その呼びかけが南無阿弥陀仏・念仏です。そして南無阿弥陀仏について知ってゆくことが他力の教えであります。
先ほどの歌詞に話を戻しますと、求める愛情というのはヒューマニズムにおける嫌いになったら別れるという愛情ではなくて、どんな生き方をしようとそれこそ病気であろうが毎日一生懸命働いていようが、一生をつらぬく・いのち・ではないかと感じるのです。
私たちはその様ないのちを実は既にこの悩み多き身に賜っているのです。それを知りなさいと呼びかけられ応える大いなる物語がひとり・ひとりにあるように思います。