副住職のはなし
教えを広めると言うけれど
副住職のはなし寺離れが進んでいるというニュースを見かけることがある。
それに対してお寺側がこれではいけないと音楽や落語をやってみたりイベント屋と化してゆく傾向がある。私もイベントなどはやらないが、その傾向は持っていると自覚している。
多分宗門全体にもイベントなどで、人々をお寺に引きつけて勢力を維持・若しくは拡大しようとする傾向があるだろう。しかしイベントをやればやるほど、お寺らしさが無くなってゆく気がする。
お寺には住職が住んでいて何かあると話を聞いてくれる。その住職は聖典を読み日常生活の苦悩を大切にされ、苦悩を縁として法を聞く生活をされている。話を聞いて貰えるというのは救いではないだろうか。どれだけ現代社会において聞いてくれる場所があるのだろうか。
曹洞宗の永平寺では首座法戦式という行事があると聞く。その中で寺が大きいとか小さいとか言うが根拠はなんだという問答がある。典座もそうだが、このあたりが凄いと感じている。私も大きい小さいというがその根拠は檀家数であり経済規模の話で、そこに仏道を歩む方の存在が入っていない。
私自身が法を聞く生活をするならば、例え一人でもそこは大寺院である。