副住職のはなし
この身に願いあり
副住職のはなしこんにちは。先日村の方が亡くなられまして檀家さんではないのですがお通夜に出席してきました。
普段は前でお経を上げる立場なので後ろの一般参列席に座って少し違和感を感じながらお経を聞いておりました。
お経が終わり他のお寺さんの通夜説法になったのですが、その中で「人間死んだらゴミになる」という本を書かれた方の文章を引用して、片やその反論の文章を札幌のお寺の奥さんが書かれたそうですが、その二つを対比してお話されていました。
反論の文章に「あなたは未完成でゆかれた」とあるそうです。ゴミになると書いた人の生き方が未完成と言っておられるのでしょうか。ようは仏教の教えを聞いていないと言いたいのだと思いますが、人間は誰でもそうなのではないでしょうか。
介護を経験した方ならわかるかと思いますが、苦労を掛けられると親でももう死んでほしいと思うのが我々の偽らざる心ではないですか。そこに人間の苦悩があるように私は感じます。
きっと「人間は死んだらゴミになる」と書かれた方もとっても大きな苦悩を抱えた人生を歩んできた方ではないでしょうか。人間であることを放棄して何とか辛うじて生きている、そういう生活をされた方かも知れません。深い傷を「ゴミになる」という言葉から感じます。
そういう方に対して、札幌のお寺の奥さんは「あなたは未完成でゆかれた」と言っておられます。取り方によっては、危ない言葉だと感じます。奥の深い言葉であれば良いのですが、単なる批判だと宗教を使って人を裁く言葉になってしまいます。
真宗門徒の阿弥陀如来様は、大きな苦悩を抱えた我々、もっと言えばこの私に寄り添って下さる仏様です。けっして苦悩や傷を負った者を軽んじません。
だからこそ私たちは阿弥陀如来様に手を合わせるわけです。仏様の願いをいのちと言いますが、いのち・願いをかけられている身です。
この身にいのちあり 大切にしていただきたいと思います。