副住職のはなし
弱さを隠そうとする攻撃性
副住職のはなし表題は誰か他の方の事を申しているのではありません。わたし自身の事を申しています。
今日一日門徒さんや縁ある方とお話する機会がありました。それぞれ立場が違う皆さんですが、一生懸命生きている方たちです。
皆様のお話で共通して私が感じたのが表題の事であります。
お寺といえども娑婆世間、いやお寺(もっと言えば自分)こそ娑婆のドロドロとした煩悩の中心地だといつも感じていたのですが、今日は自分自身の生き方を、皆様とお話する中で照らされる事がありましたので強く感じました。
私の煩悩の深淵を見ました。弱い自分では誰からも必要とされないのではないかという想いから攻撃的な生き方をしているなと自覚致しました。
そこで思い出されたのが華厳経というお経です。善財童子という少年が53人の様々な職業・年齢・性別の方を訪ねて旅をされるのですが、訪ねる方々というのは世間の方なのが興味深いのです。
そして訪ねる方というのは立派な方ばかりでは無いのです。むしろ世間では役立たずと思われている方が多いのです。
しかし、どんなに役に立たないと思われている方も実はご本人の役目をしっかり果たしておられるのです。役に立たないと決めつけている方の傲慢さがこそが問題です。
ご自分の弱さを自覚して弱い自分に立っている方は実は周りの人を支える大事なお仕事なさっているのです。そのような方を今まで数人お見かけしましたが光を放っておられるなと感じたことは覚えています。
弱い自分に身を置く。座禅という修業がありますが弱い自分に座るということでしょうか。
私には大変難しく感じています。